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昔のイケメン


織田信福(明治維新後で20歳ごろ)



 一時あちらこちらで話題になった昔のイケメンの肖像写真です。この写真を始めて見た時の私の衝撃は小さくありませんでした。私は最初、渋谷の若者に着物を着せて撮影した写真を、フォトショップで古色加工して作った広告写真に違いないと思ったほどです。それにしても135年ほど昔の写真ですが、若者にとってのファッションや自信が今も昔も変わらないことが非常に興味深いです。

 この若者は織田信福という人物で、万延元年(1860)に土佐宿毛の武士の家庭に生まれました。そして成長してからは、高知城下の名医山崎立生らが立てた医学校「鼎立義塾」の門下生になりました。しかし師匠山崎立生が明治14年(1881)に病死したため、進路を失った織田信福は一時期放蕩に陥りました。その時、信福の母は先祖伝来の短刀を持ち出して自害を迫ったそうです。困惑した信福は横に座っていた山崎立生の次女竹(慶応2年(1866)生まれ)に取り成して貰おうと思ったところ、「母は私が養いますから、後の事は心配しなさるな」と意外な対応だったそうです。この返答に閉口した信福は改心発奮して明治15年(1882年)に上京し、明治18年(1885)に「歯科医術開業試験及第之証」を取得して帰郷し、歯科医院を開業しました。そして、教師として城下の小学校で教えていた竹と結婚しました。25歳ごろのことです。

 そのころ織田信福は極端な民権活動家としても動き出しました。診療室で爆弾を製造中に失敗して天井を打ち抜き大やけどをしたり、明治20年の「三大事件建白運動」では手製の爆弾をもって上京したものの、突然の保安条例によって東京から追われる身となりました。政府高官に投げつける予定だった爆弾は、帰途の船上から琵琶湖に捨てたそうです。ちなみに妻の竹も父親や夫などの影響で女権拡張運動活動家になりました。その後、織田信福は高知市議会議長、県議会議員となりました。夫婦は共にキリスト教信者で、竹は明治41年(1908)に42歳で病死、織田信福は大正15年(1926)に永眠しました。織田医院は現在も高知市で続いています。


リンク:

織田歯科医院

社会運動に生きた女性たち



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テーマ : 歴史    ジャンル : 学問・文化・芸術
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私は大きくて豊かな自然に憧れまして十数年前に北海道に移住致しました。好きなスポーツは山登りでございます。体内から悪いものが出て心身ともにスッキリする感じが大変心地良いのでございます。 趣味である写真はカメラ・スタビライザー(自作)を用いて撮影しました北海道の山登りの動画がメインでございます。私はこの北海道の豊かな自然がいつまでも大切に守られて行くことを強く願っております。

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